基本単位

パトリシア・ハイスミスに恋して』を観た。

ハイスミスは、たくさん愛して、愛して、愛を欲し続けた人。愛。なんで、こんなに難しいものを人は欲するの。みんなが欲して、みんなが奪い合うもの。「奪い合えば足りないが、分け合えば十分だ」これは、なんのたとえ話だったかな。聖書かな。なんで、人は愛を求めるの?なんで、人は誰かの愛が無いと生きていけないの?なんで?愛にリミットなんて無いのに。いくら与えられても、また渇いちゃうのに。なんで?

 

 

 

愛衣は優生を欲するけど、でもそれは、愛が不足しているからじゃない。愛を分ける対象を欲していたから。

 

ことばがたよりにならない。

 

 

なんで、「婚姻している男女」が世の中の基本なの?同性カップル事実婚カップルも、子どもを精子提供や体外受精で授かることが、法律で禁止される。あと半年。なんで、「旦那さんと奥さん」が基本単位なの?不妊治療の技術はその人たちにしか与えられない特権になる。日本では。なんで?

日本にいる必要なんて無い。存在する場所なんてフランスでもどこでもいい。そもそもこの世界にい続ける必要なんて無い。いつ消えてもいい。

 

つかれた。

 

「汝の欲するところをなせ」

 

自分が何を欲しているのかわからない。

いつ消えてもいい。

 

 

生きるのが

疲れる、と言われた。

匂いに敏感すぎると。いつも洗濯をしてくれている母からすれば、匂いに敏感で少しでも嫌な匂いだと着られないと言う私は迷惑だろうと思う。小さいときから普段と違う柔軟剤を使って洗ったものは着られないと言い、母が無理に着せても気持ちが悪くなってしまった。最近わかったことだが、ストレスがかかると匂いの敏感さはさらに強くなる。

一緒に暮らす家族に、疲れると言われるのも道理だと思う。私と1番長く一緒にいる私自身がとても疲れるのだから。

図書館に行けば、近くにパソコンをカタカタする人がいると集中できず、電車に乗れば、隣の人のタバコの匂いで気分が悪くなる。

家にいても、テレビが消音でないとくつろげないし、姉の使うオイルの匂いがすると用事を思いついたふりをして自分の部屋に避難せねばならない。

疲れる。生きるのがしんどい。ちょっとしたことの積み重ねが、積もり積もって生きることを困難にする。

感覚過敏、という言葉を最近知った。自分に当てはまるものが多くてびっくりすると同時に、「感覚過敏」という言葉ができるくらい、同じような人がたくさんいるのだと知って嬉しかった。

今まで生きてきて、同じ空気を纏った人は、大学でフランス語や西洋美術を教えている教授だけだった。生徒の声やペンの音で講義に集中できず怒りだし、生徒に聞かせようと授業中にかけてくれたお気に入りのシャンソンに感動して号泣していた。あぁ、この先生は生きるのがしんどいだろうなと思った。感受性はピカイチだが、致命的に適応能力が欠けている。知能は恐るべきほどに優れているが、それを上手く発揮する前に精神に傷を負ってしまう。

私は、完全にADHDだと周りの友人には思われているけど、大学卒業後、社会に出て仕事で困るなら診断を受けよう、ぐらいに思っている。診断を受けたら、自分の基準がどんどん下がってしまいそうで怖い。生きる困難さを、全てこの4文字のせいにしてしまいそうで。

時間を管理するのが苦手。

興味を持てない話をじっと聞くことが苦手。

人に触られるのが苦手。

いろんな匂いが苦手。

明るすぎるところが苦手。

人に説明するのが苦手。

こんなに単純な、我慢しろと言われるようなことが、頑張れと言われるようなことが。生きることのハードルを1ミリずつ、1センチずつ、上げていく。

理解してもらおうとか、そんなことは思っていない。無数の言葉が、さらに無数の言葉にならない感覚が、頭の中で氾濫しているのに、それをどうやって人にわかってもらおうというのか。自分のいる場所も定かでないこの混沌の中で、誰に縋ろうというのか。それでも、こういうふうに言葉にしないといられない。誰に宛てているわけでもないのに。

生きるのが、苦手だ。

 

ne pas dire ヌパディール

「On échoue toujours à parler de ce qu'on aime.—人はつねに愛するものについて語りそこなう」

 

大学の講義で、スタンダールのこのことばについて知った。

人は、どんなに大きな感情を抱いても、それをじゅうぶんに伝えることはできない。いや、大きすぎる感情ほど、言葉からはみ出したところにある。

 親友を喪って寝ることも食事をすることもできなくなった人に対して、人は《Condoléance.—お悔やみ申し上げます》としか言えない。生きる気力を無くしたあなたを心配しています、あなたを大切に思っている者がここにいます……いくら言葉にしようとしても、紋切り型の言葉を、どこかで聞いたことがある言葉を言い続けることしかできない。

 どんなに愛していても、誰よりなにより大切に思う気持ちが溢れても、言葉にしようとすれば、「愛してる」という陳腐なものになる。だから人は、ときに風景とか四季について語り続けたり、とりとめもないことについて説明しだしたりする。教授はne pas dire(ヌパディール)というレトリックについての説明を付け加えた。人は違うことを言い続けるしかない。だからこそ、ある対象について、言わないことで表現することもできるのだと。

 教授の話を聞いていて、夏目漱石が「月が綺麗ですね」と訳したとか訳してないとかいう話をふと思い出した。“I love you.”と言いたいのに、「愛しています」でも「あなたが好きです」でもなく、なんの関係もないはずの月についてつぶやく。日本人の奥ゆかしさなどと説明されることも多いが、これは人間の、ことばを使う動物の、感情のすべてを言葉に託すことなどできないという諦観も多分に含んでいるような気がする。

 

 

 

 

 

誰よりも大切で、元気な姿を見ただけで胸がいっぱいになる人にたいして、なにが言えるんだろう。久しぶりにその姿を目にして感情が爆発するとともに、とりとめもない言葉しか出てこなくなる。それでも、そのとりとめもない言葉を、何度も送りたくなる。とりとめもないLINEにひそむ感情の爆発になど、気づかれなくていい。

 

 

「よくわからないものは、よくわからないままに。ナゾは、ナゾのままに。そこに宝があるんです」

文学に生きる教授のことばは、暴発しそうなこころにやさしく響く。

過剰な愛と激しさ

今日、ほぼ初対面の人と一緒に食事をする機会があった。そのとき、

「⚪︎⚪︎ちゃんはほんとに穏やかだねぇ」と言われた。私の性格を穏やかだと言われると、いつもこう説明する。姉が激しいから私は穏やかなんです、と。自分でも、この分析は合っていると思っている。

幼い頃から姉は、人一倍愛情が深く、人一倍傷つきやすく、人一倍激しかった。妹の私を全力で愛し全力で守ってくれたが、激しすぎる愛情は危うさを感じさせる。「ナミ(仮)が死んだらあたしも死ぬ」という姉の発言は、私が死ねば本当に現実になってしまうだろう。私をいじめる人間はもちろん、私を可愛がってくれる人まで姉は突き飛ばし私から引き離した。今でも、仲の良い先輩の話などすると姉は「あたしの妹だから自分の妹みたいに勘違いしないでほしいな」と冗談めかして言う。半分本気でそう思っていることは目でわかる。

傷つきやすすぎる姉は大学生くらいになっても、私が邪険にしたりすると、家がひっくり返るほどに激しく泣いたり怒ったりした。聖書には、「見返りを求める愛は愛ではない」と書いてある。しかし、妹を何よりも大切に思い失うまいとする姉の激しさを愛と呼ばないならば、私は愛という言葉が何を指すのか理解できない。

過剰な愛を受け取り続けたからだろうか、私は愛するということがどういうことなのか、本当の意味ではよくわからない。最近は、誰かを好きになっても、それを表現することが怖くなった。愛情を、愛しさを、抑え込んでしまう。指一本でも触れるのが怖い。本気で愛してしまえば、自分も相手も壊れてしまう。高校生のときはまっすぐ相手に伝えられたはずの気持ちが、自分の中で結晶になって腐ってゆく。

恋をすると穏やかなはずの性格が変わってしまうのだ。朗らかな気性など一瞬で吹っ飛んでしまうのだ。高校1年生ではっきりと同性の女の子に恋していることを自覚したとき、気持ちを伝えられないもどかしさと自分への恐怖で、リストカットが止まらなかった。絶対に気づかれない太ももや足首より下を切っていたのだから、理性は残っていたのだろう。でも、はっと我に返ったときに吐き気がするほど、太ももは何十本も切り裂かれ真っ赤に染まっていた。それでも卒業前に告白して案の定失恋したときは、大号泣して咳き込んだ拍子に肺に穴があいて気胸の手術をした。大学1年のときは好きな人に嫉妬して袋に入った氷を投げつけた。

恋愛がからむと、普段は自分でもわからないどこかに仕舞われている激しさを暴発させてしまう。姉と同じ血が流れているのだから、自分の中に激しさや衝動性が眠っていることも納得できる。性格と本能は違う。恋愛は、性格や気性なんてものともせずに、本能の部分を引き出してさらしてしまう。

恋愛と友愛の見分け方のひとつは、激しさを伴うか否かだ。恋をして美しくなるのは、本能的な欲望や激しさが引き出されて瞳や肌を妖しく輝かせるからだ。

愛してる

愛してる、と冗談で何度も口にしている人に、違和感を持っていた。その人をセルちゃんとすると、セルちゃんは特定の人にだけ、ありがとうの代わりに、一緒にいようの代わりに、愛してるを連発していた。他に一緒にいる人がいないのかな、先輩とも仲良さそうには見えるけど大丈夫かな、とか、最初はわりと心配していた。でも、「愛してるっ」って言ってるのを聞くたびに、近くで爆音の花火が打ち上げられると同時に目の前を虫が通り過ぎていってさらに知らない人にいきなり抱きしめられたみたいな、言葉にし難い気持ち悪さみたいなものを感じた。心配の気持ちを上回る違和感、気持ち悪さ、嫌悪感がどこから来るのかわからなかった。セルちゃんの気持ちがわからなかった。わからないまま、セルちゃんが来て友達に「愛してるっ」って言いながら抱きつくのを見ると、私は曖昧に笑って一目散に退散した。

暴力的、という言葉がふっと浮かんで、腑に落ちた。否応なく自分のペースに引き込む暴力性、今までその人が一緒にいた人を一瞬で排除する暴力性、そこに「愛してる」という言葉を使う奇妙な歪み。セルちゃんが目を細めて「愛してるっ」と言うとき、そいつじゃなくて私を見ろ、という命令にも似た願望、こうすれば自分に従わせられると信じて疑わない傲慢さが、透けて見えてしまう。セルちゃんが来るまで保たれていた、微妙で繊細な距離感から来る安心の空気は、一瞬で消え去る。伝えようとした言葉は私の喉を再びシャラシャラと転がり落ち、この世界がまた居心地の悪いものに戻ってしまう。

愛してる、という言葉が世界に溢れている。それも、セルちゃんの愛してるのような暴力性を帯びたものや、お互い馬が合わないのがわかっているのにむしろ当てつけのように放つ愛してる、愛していないことが浮き彫りになる空虚な愛してる。世界に溢れた愛してるという言葉に、私は焦ってしまう。ことばが、犯されていく。

愛情は、どんな言葉にもひそませることができる。ありがとう、またね、無理しないで、それじゃダメだよ。愛が含まれていれば、ひとはどんな言葉も愛してるに変換して受け取ることができる。どんな言葉でもいいのだ。

逆に、「愛してる」という言葉を使わねばならないのはどんなときだろう。私はまだ使ったことが無い。愛してるよりも先に「好き」のほうが想いが伝わる場面のほうが多い。愛してるは日常生活でもゲームでもドラマでも使い古されてしまい、この言葉だけでは茶化すようなおどけたような印象さえ与えてしまう。普段の言動だけでは伝わらない強すぎる想いだから、愛を伝えていくだけの時間が残されていないから。この言葉を使わねばならない理由は様々だろう。でも、一様に激しさがある。一心不乱と言うと、激しく集中しているのにどこか錯乱したような印象を与える。それと同じだ。愛してると言うとき、人は目の前の相手しか見えない激しさと裏合わせの、ある種の興奮状態、冷静さを欠いた周りが見えない状態にある。だから、周りの人から見ると周囲が見えない危なっかしさ、滑稽さがある。これは愛してるを茶化す文化の原因のひとつかもしれない。愛してると言うのを躊躇するのは、この茶化すような視線を、つまり自分と愛してる人以外の「周りの人」の存在を意識してしまうからではないか。愛し合う人たちだけの隔絶した空間が出来上がるとき、初めて愛してるは元の輝きを取り戻すのかもしれない。

 

幸せの国

 もう無理だなってわかった。

今までここでどうやって笑っていたのかわからなくなった。ここにいる人が大好きだった。でも、グラウンドの雰囲気が、空気がもう無理になってしまった。みんなのストレスとしんどさと、自分の生き苦しさと脆さとが組み合わさって、こころが壊れそうだ。もうずいぶん前に壊れていたのかもしれない。でも、まだ辛いとかしんどいとか思う感情がある。こころがまだ動いてるってことだ。コーチのひとりが、辛くなるってことは頑張ってるってことや、適当にやってたら辛くもならん、って言ってくれた。そうだね、自分なりに、ギリギリのとこで頑張ってたのかなって思った。このチームの基準では、自分は頑張れてない。でも、もう限界。

 先輩が、自分に合わない環境からは、逃げるのも大事だよって言ってた。世界は広い、って。そうだね。先輩は、ブータンの話をしてくれた。ブータンは、国王夫妻がめっちゃいい人で、質素な暮らしをしている。編み物とかをして生計を立てて、質素に幸福に暮らす。どんな暮らしだろう。国民の99%が幸福な国。優しい人の周りには優しい人が集まるって言うけど、国単位で優しい人、幸せを感じられる人が集まるなんてすごいなぁって思った。日本はストレス社会っていわれるけど、ブータンに生まれていたら、どうだったかな。でも、ブータンに生まれていても、幸せを感じられたかはわからない。幸せだとは回答できない1%になってしまったら。日本で幸せじゃないよりも、ずっと苦しいかもしれない。1%なんて、性的マイノリティよりもずっとずっと少ない。ものすごくマイノリティだ。ブータンで幸せとは言えない人は、ものすごく疎外感を感じるんだろうな。周りがみんな幸せだって言っているのに、幸せじゃないなんて、家族にも友達にも恋人にだって言えるわけない。幸せであることが圧倒的にマジョリティであるとき、気持ちのはけ口はどんなカタチを取るんだろう。リスカもODも自殺も聞いたことが無いような国で、こころが折れそうな人は、どうしているんだろう。事故に見せかけるしか、それか幸せなフリをして、から元気をし続けるしかないのかな。幸せの国ブータンでも、きっと辛いことはいっぱいある。今のブータンの幸福度は高いかわからない。それでも、幸せの国ってなんか夢があって、いい響きだな。

 

 ここからいなくなる。やり残したことは無いか。貸したい本がたくさんあった。本棚を見せてもいいと思える人と会えたのに、まだ見せてない。もっとこのスポーツを通して仲良くなりたかった。もっともっと、こころで近づきたかった。

 もっとこころが強かったら、と思ってはいけない。だって、もう限界を超えているから。こころは、限界を超えても意志の力で頑張れてしまう。理由が無くても出てきてしまう涙も、リスカの頻度も深さも、警告にはなっても、こころを止めることはできない。誰かに会いたい、と思ってしまえば、どんなに合わない環境でもストレスに満ちたところでも、毎朝出かけてしまう。2、3日行けないだけでものすごく長い間行けていないように感じる。

 

 アミが教えてくれた曲の一節。

単純なことだって

 いつもわかってるのに

  こころが絡まって

   簡単な正解を選んだあとで

    なぜかまた傷ついてる

     それにも気付いてる

 

 単純明快な正解なんて無い。だから、迷って迷って、無理をしてしまう。でも、ここまで頑張って無理だったんだから、仕方ない。そう思うことに、する。したい。させてほしい。でも、誰に?自分で決めることなのに、自分が決めれば誰も反対なんて出来ないってわかってるのに。

 

生き苦しい

 精神的に来られなくなっていた友達が適応障害と診断された。たぶんそれを聞いた周りの人全員が適応障害についてググってみたと思う。

 適応障害の症状がみんな自分にも当てはまってしまってうーん、ってなった。最終的に消えてしまいたいと思うようになると重症、みたいなこと書いてあったけど、そんなのずーっと続いてる。適応障害になりやすい人の中に発達障害とかHSPとかも入っていた。でも適応障害発達障害HSPも、精神疾患には境目なんか無いんじゃないかって思う。どれが原因でどれが二次障害かなんてわからない。どの症状がどれに起因するものかなんてわからない。どうして区別する必要があるんだろって思う。自分はADHDかもしれないし、他の発達障害と合わさってるかもしれないし、HSPかもしれないし、適応障害かもしれないし、うつ病かもしれない。どれが原因でどれが結果でどの症状がどれに起因するかもわからない。ただ生き苦しい。もしかしたら病院に行ってこの中のどれかの診断名を付けてもらったら、少しは生きやすくなるかもしれない。自分はこれなんだって、安心できるかもしれない。

 ひとはそれぞれいろんな「疾患」とか「障害」を持っている。それはその人の中にあるものではなくて、社会が作り出すもの。個々人の中にあるimpairmentが、社会がその人に要求する基準によって、disabilityに変えられてしまう。

 例えば、あるお店に階段しか無いと、階段を上がれない車椅子の人や足が不自由な人にdisabilityが発生する。でも、それが階段じゃなくて一本の縄だったら。その縄をよじ登っていく体力の無い人にもdisabilityが発生する。もっと言えば、その縄も無くて、少しの手をかけるだけの凹凸しかない壁だったら。もはやボルダリングができる人か忍者以外のほとんどの人がdisabilityを持つことになる。

 つまり、なにがdisabilityかなんて社会の状況が要求する基準によって決められているにすぎない。この「障害の社会モデル」をD&Iの講義で知ったとき、この考え方を知ることができてよかった、少しは生き苦しくなくなるかも、って思った。でも困難さみたいのはあんまり変わってないのかな。

社会って言っても、普段の生活での社会の姿は周りにいる一人ひとりの顔だから。社会が求める基準、っていうのは結局、その周りのひとからの期待値。社会が悪い、って言ってみても、実際には自分の周りの人の(時にはとても大切な人の)期待に自分が届かない、ってことに対して落ち込むことが多い。

 病院で診断を受けたとしても、たぶん自分はもっと困難さが増すだけだと思う。自分のミスが全てこの疾患のせいだ!って思えてきて、薬に頼りまくることになる。恋愛、リスカ、お酒、小説、…って今まで依存してきたものが、診断名と薬にとって代わるだけ。

 

 消えたいと思うことがどうして悪いのかわからない。

 

 

 

追)明日、川野芽生さんの『奇病庭園』が発売。ずっと待っていた。すでに予約済み。入荷したから明日以降お越しくださいってさっき本屋さんから電話をもらった。嬉しい。

結局、消えたいと思っていても、読みたい小説と会いたい人がいれば、この日まで、この日まで、って少しずつ年を重ねていけるのかもしれない。