生きるのが

疲れる、と言われた。

匂いに敏感すぎると。いつも洗濯をしてくれている母からすれば、匂いに敏感で少しでも嫌な匂いだと着られないと言う私は迷惑だろうと思う。小さいときから普段と違う柔軟剤を使って洗ったものは着られないと言い、母が無理に着せても気持ちが悪くなってしまった。最近わかったことだが、ストレスがかかると匂いの敏感さはさらに強くなる。

一緒に暮らす家族に、疲れると言われるのも道理だと思う。私と1番長く一緒にいる私自身がとても疲れるのだから。

図書館に行けば、近くにパソコンをカタカタする人がいると集中できず、電車に乗れば、隣の人のタバコの匂いで気分が悪くなる。

家にいても、テレビが消音でないとくつろげないし、姉の使うオイルの匂いがすると用事を思いついたふりをして自分の部屋に避難せねばならない。

疲れる。生きるのがしんどい。ちょっとしたことの積み重ねが、積もり積もって生きることを困難にする。

感覚過敏、という言葉を最近知った。自分に当てはまるものが多くてびっくりすると同時に、「感覚過敏」という言葉ができるくらい、同じような人がたくさんいるのだと知って嬉しかった。

今まで生きてきて、同じ空気を纏った人は、大学でフランス語や西洋美術を教えている教授だけだった。生徒の声やペンの音で講義に集中できず怒りだし、生徒に聞かせようと授業中にかけてくれたお気に入りのシャンソンに感動して号泣していた。あぁ、この先生は生きるのがしんどいだろうなと思った。感受性はピカイチだが、致命的に適応能力が欠けている。知能は恐るべきほどに優れているが、それを上手く発揮する前に精神に傷を負ってしまう。

私は、完全にADHDだと周りの友人には思われているけど、大学卒業後、社会に出て仕事で困るなら診断を受けよう、ぐらいに思っている。診断を受けたら、自分の基準がどんどん下がってしまいそうで怖い。生きる困難さを、全てこの4文字のせいにしてしまいそうで。

時間を管理するのが苦手。

興味を持てない話をじっと聞くことが苦手。

人に触られるのが苦手。

いろんな匂いが苦手。

明るすぎるところが苦手。

人に説明するのが苦手。

こんなに単純な、我慢しろと言われるようなことが、頑張れと言われるようなことが。生きることのハードルを1ミリずつ、1センチずつ、上げていく。

理解してもらおうとか、そんなことは思っていない。無数の言葉が、さらに無数の言葉にならない感覚が、頭の中で氾濫しているのに、それをどうやって人にわかってもらおうというのか。自分のいる場所も定かでないこの混沌の中で、誰に縋ろうというのか。それでも、こういうふうに言葉にしないといられない。誰に宛てているわけでもないのに。

生きるのが、苦手だ。